死を呼ぶドラマ撮影(アニメタイトル『代役・京極真』)では、オモテの話として京極が久しぶりに登場した。園子とイチャつきながら、ある意味コメディリリーフ的な役割である京極の良さが全面的に出た話だった。蘭が犯人を諭す様子を見て、かつての有希子の姿に重ねる監督さんもいい味を出している。
さて、裏ではどういう話が走っていたかというと、ざっくり修学旅行編から続いている世良の追及だった。世良は元の姿で修学旅行に現れた新一を見て、「APTXの解毒剤」が存在するのではないかと考え、コナンがそれを持っているのではないかと考えた。
そこで世良は、コナンと新一の関係について蘭に問いただし、コナンを揺さぶる。
世良「じゃあぶっちゃけ聞くけど…新一君がいる時…コナン君いないんじゃないか?」
蘭「と、どういう意味?」
世良「どういうって…そういう…意味だよ…」
蘭「あるよいた事…新一とコナン君一緒に…」
世良「あ、あるのか!?」
蘭「うん!新一が出た学園祭の劇もコナン君見てたし…」「次の日登校するとき時コナン君と一緒に新一迎えに行ったもの…」「ねえ園子!そうだったよね?」
園子「ええ…学園祭で新一君が推理ショーやってるのを…ガキンチョが仏頂面で眺めてたわよ…」
蘭「もしかしてコナンくんと新一同一人物だって疑ってる?」
世良「あ、ああ…」
蘭「私も何度かそう思ったけど…そんな魔法みたいな事あるわけないって思い直したんだよね!」「コナン君はコナン君だもんね!」
コナン「うん!」
96巻ファイル10
ここでの蘭の返しが秀逸
後述するが、命がけの復活でコナンが守りきった秘密は、作中においてはもちろん、コナン世界を飛び出て現実世界でも非常に重い。その重さを作者側も十分に理解しているからこそ。蘭は「新一と蘭が一緒にいたのは学園祭のとき」だと答えた。
「コナンと新一って一緒にいたのそんなに前だっけ…。業火の向日葵でも一緒にいたような」「それなら銀翼も…」「いやいや世紀末も」
なんて考える人もいるかもしれないけど、結局
映画と本編は別です
という当たり前のことを青山先生ご自身が強く意識しているからなんだろうなあと感じて、ハッとしたというか、感心してしまった。
映画とごっちゃにしている人が多い
蘭の前にコナンと新一が一緒にいたか | 新一の正体 | |
---|---|---|
世紀末の魔術師 | o | キッド |
命がけの復活 2000年2月単行本収録 | ||
迷宮の十字路 | 新一のみ | 本人 |
銀翼の奇術師 | o | キッド |
天空の難破船 | o |
キッド |
業火の向日葵 | o | キッド |
死を呼ぶドラマ撮影 2019年4月単行本収録 | ||
紺青の拳 | o | キッド |
上記は、劇場版とサンデー本編を時系列で並べたもの。劇場版では新一役をほとんどキッドがやっており、それに蘭も多くの場合気がついているという点も興味深い。
映画と本編は別、といっても、全く別世界の話をしているわけではない。そもそも、劇場版には青山先生はじめサンデー側の制作陣もがっつり関わっており、読売テレビを始めとする製作委員会だけで作られているわけではないから。
ここで言いたいのは、映画の描写は、本編要素の補助や補強、要素の追加だということ
例えば、漆黒の追跡者では、アイリッシュという組織の構成員が登場するが、彼は劇中で死んでしまうので本編には影響しなかった。アイリッシュがたどり着いたコナン=新一も彼以外に流出することはなかった。
純黒の悪夢では、キュラソーというメンバーが登場する。彼女もまた、劇中で命を落としてしまった。
本編に影響させないように配慮している。
異次元のスナイパーで沖矢=赤井秀一って明かされたじゃないか、という人がいるのもわかる。確かに近年のコナンは、原作で示唆されていることの決定的な証拠を劇場版で出す傾向にある。
ただ、異次元の狙撃手公開時点で、原作ではすでに83巻まで単行本化されており、沖矢以外の正体は確定していた。そして映画公開と歩調を合わせてサンデー本誌で緋色シリーズが始まった。
これはどちらかというと、サンデーの連載と劇場版での正体確定を絡めたメディアミックスの一種と捉えるべき。
劇場版で明かされた要素 | 当時のサンデー本誌 | |
---|---|---|
異次元の狙撃手 | 沖矢昴=赤井秀一の確定 | 4月から緋色シリーズ |
純黒の悪夢 | ラムの声(変声機) | 裏切りのステージで安室と赤井の過去が明らかに |
ゼロの執行人 | 黒田のバーボン呼び(口の動き) | 休載明け、工藤邸でお茶会 |
上記のように整理するとよく分かる。むしろ、原作の展開に応じてその年の映画のテーマをねっているようにさえ思える。劇場版で出たコナン本筋に関する情報は、原作側と完全にリンクした情報
だから、純黒で出てきたラムの声のピッチを色々変えて誰それに似ているのではないかと考えるのは全く意味がない。そんな重要会話を劇場版で初解禁するわけがないから。
漆黒の追跡者で、組織の一員の一人でしかないアイリッシュはすぐに目の前の子供が実は高校生の工藤新一であると気がつく。世良が言うように、自分の目で直接的に体験しないと、指紋だけでは信じがたい現象のはず。コナン世界において、人が幼児化することに気がつけるハードルが相当高いのは周知の通り。「死を呼ぶドラマ撮影」で世良がこう語っている。
コナン「よ、よーく見てよ!!」「ボク、子供だよ?」「新一兄ちゃんって高校生でしょ!?ボクなワケないじゃなーい!!」
世良(「ああ…普通の人ならそう思うだろうね…」「ロンドンでパパに会いに行ったママが…少女の姿で帰ってきたのを目の当たりにしてなきゃね!」「そしてその謎を解く鍵だと思ったのが…」「その時、目に飛び込んで来た君だったのさ!!」
96巻ファイル10
アイリッシュは疑うことなく直ぐにコナン=工藤新一を理解するのは、劇場版が原作とはリアリティラインが別にある特殊なバランスで成立しているから。
では、名探偵コナンで劇場版はどんな役割を果たすんだろう。この2作の共通点は、それぞれコナンと灰原にキャラクターとしての深みを与えており、それが本編にも好影響を与えている点だ。
漆黒の追跡者で、アイリッシュは今際の際に「いつまでも追い続けるがいい…工藤新一」と言い残す。これは、組織を追い詰めて悪事を暴くというコナンの探偵としての基本的な目標を再確認させることになった。
もっと好例は、純黒での灰原とキュラソ―だ。灰原は組織を抜けた裏切り者としての自分の存在を常に背負っており、恐怖を感じているキャラクター。そこに、記憶喪失とはいえ少年探偵団とのふれあいの中で人間としての心を取り戻してゆき、最終的に人を救う選択をとる。
こうした様子をみた灰原のキャラとしての深みを与える作品に感じる。
ただ、繰り返すが「この2作がなくても本編だけで成立するし、逆にこの2作だけでは成立しない」
コナンと灰原が「命がけ」で守り抜いた秘密の重さ
命がけの復活で瀕死の重傷を追ったコナンは、文字通り命がけで洞窟から脱出し、病院に担ぎ込まれた。このとき既に蘭はコナン=新一だと確信している。
一度は蘭に全てを打ち明けると決めたコナンだったが、灰原の忠告と灰原の提案を受け入れた。灰原は100%信用はできないが、自らの体を預け、新一として蘭の前に現れる決断をした。
灰原も同様、コナンの正体を蘭が知るのを避けたいという点ではコナンと利害が一致していたため、作戦に協力した。
この作戦に不可欠な要素は、コナンと蘭が同じ空間に存在し、それを蘭に明確に示すこと。そのためにコナンは解毒剤で一時的に元の姿に戻り、灰原はコナンとして蘭に接した。変装には有希子や阿笠博士にも協力してもらった。
灰原はこれをコナンへの「貸し」だと認識し、それは謎めいた乗客で回収された*1
灰原(「これは貸しにしとくわよ…」「江戸川君?」)
26巻ファイル7
灰原(「どうやら貸し、返されちゃったわね…」「工藤君…」)
29巻ファイル5
たびたび言及しているけど、「殺人ラブコメ漫画」の名探偵コナンにおいて、「殺人」要素の象徴である組織編の極北が二元ミステリーだとしたら、「ラブコメ」のピークが命がけの復活であり、物語でも最重要のエピソード。
灰原が杯戸シティホテルでコナンに命を救われたときに始まり、二元ミステリーで蘭が灰原を命がけで守った時に美しく回収され、20巻以上もかけてやってきたといっても過言ではない緻密な展開を、メアリーを元に戻すため、あるいは世良の好奇心やコナンへの興味だけで水の泡にしてしまうのはあまりに惜しい。
蘭がコナンの正体を疑うことはもうないか
たまに、実は蘭はコナンの正体に気がついているが、もはや本編的にもメタ的にもそれは触れないというようなバランスなのか?って疑いたくなるときはあるのは正直なところ。
蘭本人も、命がけの復活以降、明確にコナンの正体を疑ったのは1度きりだ。*2
作者側も命がけの復活の重さを分かっているから、次にコナンの正体が疑われるのは、もうコナンが完結する時に極めて近いのではないかと思う。コナンの正体が蘭にバレるのではないか、という懸念が物語から遠くなって久しい。
それとは逆に、コナンの正体を知っているのではないか、あるいは気がついているのではないかという存在バーボン編から絶え間なく登場し続けており、ラム編では世良に引き続きマークされているし、メアリーや若狭、黒田などかなり多くの人物に囲まれている状況だ。
コナンの正体を疑う役割は、蘭からそれ以外の人物に移ったといえる。