【傑作】「ハロウィンの花嫁」でついに来たかもしれない劇場版コナンのブレイクスルー

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ここ数年のイライラを晴らす快作

2022年4月15日公開の名探偵コナン劇場版第25作「ハロウィンの花嫁」。ここ数年のコナン映画ではできていなかったことを次々と実現し映画作品としての質を2段も3段も一気に上げた会心の一作だった。

①演出②音楽③脚本ーの大きく3点で、2014年の「異次元のスナイパー」以降で最高の出来だったと思う。

部分的には、私を含む古参ファンが崇めているこだま、古内両氏の体制下で作られた初期6作品を凌ぐ部分もあった。

コナン劇場版は、静野監督就任以降、率直に言って映画作品としての質を年々下げて来ていた。

ついに初期作を継ぐ監督が来てくれたかもしれない。

ハロウィンの花嫁のブレイクスルーが、制作期間の余裕ゆえなのか、制作体制の代替わりによるものか、まぐれか…今年だけでは判断できないが、満仲監督のコナンは今後も2作3作と見てみたいと思う。

下記に、ネタバレ込みで今回の映画の素晴らしい点を大きく3点にまとめた。

なお、コナン映画に求めるものは人それぞれ。評価基準を示すのはすごく難しいので、前提として私の考えを明らかにしておきたい。

  • 近作の脚本、演出とそれらを調整する監督は正直力量不足であるか、コナン映画には適さない人
  • コナン映画は興行収入が伸びるほど作品の自由度が減り、初期のような映画はつくれなくなる

以上の点から、筆者は瞳の中の暗殺者、天国へのカウントダウン、ベイカー街の亡霊の3作をもっとも評価しており、それ以外の迷宮の十字路までの初期作について日本アニメ映画の歴史に輝く傑作と考えている。

とくにベイカー街の亡霊は、実写を含めた邦画史に深くその素晴らしさを刻む金字塔だろう。

では、そんな初期作の背中が久しぶりに見えたほどの作品「ハロウィンの花嫁」のどこが素晴らしかったのか。

一気に質が上がった演出

ハロウィンの花嫁で最も素晴らしかったのが演出だ。

特に中盤の警察学校組回想シーケンスにおけるビルでの攻防は圧倒的だった。実写、アニメを問わず、アクションがここまでしっかりやれている作品は多くはない。

降谷、松田、諸伏、伊達のそれぞれが、いまどんな目的で行動しているのか、しっかり役割分担を事前に決めてから演出している。

ビルに入る前に、降谷が「伊達とヒロは間に合いそうにない」というのが、その場面だけでも2人だけで突入する理由付けとしてきちんと機能しつつ、その後松田のピンチに伊達と諸伏が駆けつける理由にもなる。

この時伊達が盾に使った車のドアについても同様。車のドアが破壊されるのには、そのシーン単体できちんと理由付けがされている。

伏線を張るとよく言いうが、伏線のためにそのシーンで機能しない描写を入れるのは伏線とは言わない。

ドラマ「相棒」の脚本を長く担当していた櫻井武晴氏の担当作でも、これまでどうしても「ためにする脚本」は避けられていなかった。

また、4人組が犯人と戦ったビルはそんなに広くない建物だが、屋外の階段や隣のビルへの飛び移りを交えて立体的に見せることで、展開に窮屈さを感じにくくなっている。

見せ方の部分で付け加えると、物語を通してほぼ話が展開される渋谷も同様だ。

近作では非現実的な大きな施設や乗り物をアニメ世界の中だけで成り立たせていた。スケール感や映画としてのリッチさは感じられるのだが、コナンらが物理法則を無視してまで超巨大構造物を制御し、その周辺で暴れるのは食傷気味である。

その点、今回は渋谷の地形や、地下に貯水槽があることまでフル活用している。渋谷の街ビル、渋谷中央署だけの物語とは思えないほど舞台に奥行きを感じた。

007顔負けのヘリコプターアクション

終盤の演出は今作の白眉だ。

ある意味コナンが作戦を立案して犯人を追い詰めるのは当然だが、犯人とコナンが2人きりになるという配慮が素晴らしい。

近年、コナンの推理力に周囲が慣れてきたという原作込みの構造的な課題がある。だが、劇場版だからといって、コナンがペラペラと小学生とは思えない言葉を発していいということにはならない。

初期作を振り返ってみると、『世紀末の魔術師』では、コナンが1人で犯人であるスコーピオンを追い詰める。『天国へのカウントダウン』では、探偵団を一旦退場させ、灰原だけを連れて如月氏と向き合った。

『ベイカー街の亡霊』においてはさらに明確で、ゲームオーバーがあるという設定を利用し早々に探偵団を消す。ホームズの推理だと断った上で、蘭と諸星少年だけがコナンの推理を聞くことになる。コントロールルームという存在は、ゲームとは別世界という前提を活かして巧みに存在感を薄めていた。

今作では、作戦を立案したコナンが屋上に先回りした上で、高木と佐藤を謎解きから排除した。

これも、犯人が逃走するためにドアを封鎖して追っ手を止めるという主目的+佐藤と高木を遠ざけ、コナンと犯人を2人きりにするというもう一つの目的が両立している。

これが明確に出来たのは、松本警視正に化けたアイリッシュが刑事たちを襲い、かつ本編に影響させぬよう麻酔銃打ち込みに失敗しゲストキャラを消し、コナンとアイリッシュの直接対決にした『漆黒の追跡者』以来ではないか。

そしてさらに素晴らしいのはこの後の安室と犯人との攻防である。

最近の映画のクライマックスはとにかく、犯人とコナン陣営の距離が遠くて、雑な空中戦をやってるだけだ。それが今回、狭いヘリの中で生身の体をぶつけ合う肉弾戦ときた。

007映画も顔負けのアクションシーンである。

最後はプラーニャに騙されていた村中自身が犯人を確保する姿ちゃんと描いている。これだけで映画としての質が何倍にも上がっているではないか。

こうした演出力がマグレではないと確信したのは、ラストシーンでコナンが組織のリーダー・エレニカをそっと抱き寄せたことだ。コナン映画に限らず、いまの日本映画にはとにかくいちいち言葉に出してしまう描写が多すぎる。その中でこのシーンではまさにセリフではなく演出で意図を伝えるという映画の王道のような描写。本当に素晴らしいなと思う。

的確なギャク演出

ギャグ演出のタイミングも完璧だった。ウェットに流れたり緊張感が強くなりすぎそうになると、サッと軽い演出を入れる。

小五郎が傷が痛む間抜け演出もそうだし、高木刑事と白鳥刑事のハイコンテキストなやりとりのあと小林先生から電話。このシーンでは、白鳥が「君たちの恋路を邪魔した負い目があるんでね…」と話したあと電話が鳴るので、その時点でどうせ小林先生だろうという予想はつくんだが、それも含めて歌舞伎みたいな描写である。

終盤も探偵団の気の抜けたやりとりや博士のダジャレクイズがある。こうした描写の内容自体は正直パターン化していて新鮮味がないのだが、タイミングが適切なので受け入れられる。

そして映画全体とバランスをとってるのがエピローグである。これも使い古された全く新鮮味のない内容なのだが、近作のエピローグでは原作匂わせやファンサービスに終始していたので、久しぶりに原点回帰した感がある。

新時代を感じる音楽とデザイン

第一作から音楽を担当してきた大野克夫氏から交代した。

最近のメインテーマは、とにかくいきなり派手に鳴らして入る。いきなり転調後の大サビみたいな始まり方をするのには若干飽きていたのだが、今回はびっくり。

最初、メインテーマが鳴り始めたことに気がつかなかったくらい落ち着いた入り。その後従来のメロディーに戻るが、これも基本に忠実でありながら音数がかなり整理されていて、おお!最近よく聞くアーティストの音楽だ!となった。

そしてこのタイトルデザイン。最後に映画のタイトルが出るのはコナン25作の歴史で初めてである。失笑レベルの爆発からいきなりタイトルが入るのは近年のお決まりで、たしかにそれはそれで気分があがるのだが、コナンのアバンってもっと落ち着いた感じでもいいよね、というのを見せつけられた。

作品全体の劇伴については十分評論するだけの知識を持ち合わせていないが、中盤のビル攻防回想のシーンの緊張感が的確に表現されていた。

それよりなにより、「君がいれば」の復活である。

もう二度と映画では使わないと思いこんでいたので、流れはじめたとき、思わず声に出してしまった。かかり出すタイミングも完璧である。

単に頭でっかちにならない脚本

難しい話題を書いたからといって、いい脚本、大人向けの脚本なのだろうか。

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前作「緋色の弾丸」より脚本が子ども向けになったという評価もあるが、私は違うと思う。

緋色の弾丸やゼロの執行人では、登場する組織や人物の背景こそ大人向けだったが、それらを記号的に配置しただけで、話全体は大人向けとは言いがたかったのではないか。

ゼロの執行人では、検察の業務や裁判の流れをつまみ食い的になぞり、警視庁公安部と検察庁の関係についても、現実にある要素を利用しただけにとどまっている。

緋色の弾丸でも、犯人の動機は複雑になっているように見えるが、実際はただの恨みでしかない。また、動機が形成されるまでの流れが分かりにくいため、非常に飲み込みづらい結末になる。

その点、今回の作品は、一見雑な脚本にみえる。真犯人らしき人も最初から村中と女しかいないので、怪しいのはこの2人と時々現れる謎の女だけ。後者の女性は終盤に入る直前でプラーミャへの復讐を誓うグループのリーダ「エレニカ」だと判明するので、怪しいのは村中夫妻しかいない。

ただ、この結論に向かうまでの脚本そのものの完成度はこれまでと段違いで、きちんとブラッシュアップされているのは明らか。

警察学校4員組、プラーミャ、エレニカらが「何かのため」に存在するのではなく、それぞれの行動の原理や目的とその結果がきちんと飲み込める。

警視庁前の爆弾事件が起こる→松田刑事の関わりが判明する→警察学校組が関係した事件の回想

というように、それぞれの要素がつながっているのは大枠、いままでの作品と変わらないけど、つなぎ方がすごくうまい。佐藤刑事が思い出した松田刑事のやりとりを後付け感を抑えつつ紹介し、それを昔の事件の回想につなげる。

その回想も、事件をいきなり出してくるわけではなくて、ちゃんと萩原の墓参りを挟んでいるからスラスラ見られるようになっている。

緋色の弾丸では、場面転換は爆発か事件か犯人逃走だった。こうした描写の転換点をスムーズにつなごうとする姿勢が見られること自体が近作では異例である

脚本へのツッコミはなくならない

もちろん、とってつけた演出や「こうなるでしょ?こうしたら喜ぶんでしょ?」みたいな脚本がなかったわけではない。

一番はもちろんアバンタイトル。いくら警備の練習だからといってわざわざ本物の結婚式場を借りて、事情を伝えられていないゲストを呼ぶことのリアリティについては100歩譲りたい。

エピローグと対になるギャグシーンと考えればまあギリギリ納得はできるかも…。

大きなシーンどうしのつながりはかなり改善されていたものの、一つ一つを見れば序盤は特に「こうすることになっているから」というような理由でつけたとしか思えない描写が目立った。警視庁前での爆発事件の捜査を公安に持って行かれたことに佐藤刑事が激怒するのと、それに付随した白鳥と高木のやりとりが典型だ。

警視庁で爆発事件があったら、普通の警察官なら「ああこれは公安マターだ」となる。

それは縄張り争いとか公安お得意の違法捜査とかじゃなく、普通に組織の役割分担の問題。佐藤刑事も警部補なんだから、そういう当たり前のことにいちいち立腹しないでほしい。これはその後の佐藤高木のキャラ造形シーンを置くことありきで頭で考えた不十分なシーンだったと思う。

中盤、コナンと探偵団がビルに誘い出されるけど、まあ新婦の知人への荷物受け取りに見ず知らずのガキが行くことのリアリティは101歩譲るとして、コナンと灰原も待ち合わせ場所にそういう渋谷の治安が悪そうな裏路地みたいなところを選ばないだろと突っ込んでほしい。ここは明確に先程ほめた脚本のブラッシュアップが足りない部分。

コナンがプラーミャ製の爆弾を見る必要があったから、コナンが液体爆弾を回収して公安に渡さないといけないから、クライマックスシーンのため、液体を調べて中和剤を作る必要があったから、

・・・こういう不自然に浮いたシーンを入れてしまったといういつものやり方。

まあ一言フォローすると、プラーミャが探偵団を消そうとした理由が爆発事件に子どもたちが居合わせたことを蘭が漏らしてしまったことだったという件。カフェでの描写自体はそれ単体でも成り立っていたので「ためにする脚本」ではなく自然だ。

ハロウィンの花嫁はとにかくこういうちゃんと考えてる形跡があるシーンが多いので、欠点は擁護したくなる。

とはいえ脚本のつっこみは続く。

中盤の終わりで、高木が宮下公園で拉致されるシーン。風見を佐藤刑事がすごい目つきで睨んでビンタするが、これも、公安の都合で刑事を雑に使ったことに怒る佐藤刑事を描く、という目的ありきでのシーンだろう。

だって松田刑事に変装すると言い出したのは高木刑事自身だし、佐藤刑事も作戦を最終的には止めなかったのだから、立場は風見と同じである。風見も「あなたもこの作戦のリスクは承知していたのでは?」と突っ込みたくなったに違いない。

期待の仕方が間違っているのでは

毎年定期的に、「迷宮のクロスロード以来です。失望しました」「最後に見たのは漆黒の追跡者でしたが、最悪でした。コナンはもう見ません」みたいなレビューがあるかど、ある意味やむを得ない。

こだま体制以降ずっとコナンを離れていた人が、最近のキャラムービー化した劇場版をみて面白かったという方がどうかしてる。

私も正直、リタイア寸前だった。

最近のコナンを取り巻く現状を出来るだけ理解しつつ、受け入れようという心持ちで毎回映画館に足を運んできた。「ああ、今年もよくわからん映画だったけど最後のシーンがあったからいいか…」とかで適当に納得していた。実際、申し訳ないが最近の映画は映画館で見たっきりだし、ほぼどんな話だったか忘れている。

それが今作、100億円映画で、大型連休のファミリー向けに小難しい組織や設定を極力抑えつつ映画作品としてのクオリティを一気に上げた今作は驚異的であると断言したい。

これまで述べてきた演出、音楽、脚本の質はここ数年の停滞を打ち破るきっかけになるかもしれない。

昔のコナン映画と同じような期待の仕方は間違っている。様々な制約があっても、ファンサービスやキャラ人気だけに依存しない、100分を余すところなく活用して映画として評価されるようになることが、最近のコナン映画でどれほど難しいことか。

こうした期待を持ってコナン映画を見に行けるのだ。