【100万ドルの五稜星】脱・二元論の模索と、前2作がコナン映画に残したノウハウ

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三度目の正直、二度あることは三度ある、仏の顔も三度まで…

なにかと人間は物事の3つ目に意味を見出したがるようだ。国によって違うけど、中学校と高校は3年だし、オリンピックで表彰されるのは上位3人まで。多くの国で裁判所は地方裁判所、高等(控訴)裁判所、最高裁判所の3段階である。

名探偵コナン劇場版第27作「100万ドルの五稜星(みちしるべ)」にも大きな3度目の要素がある。コロナ禍での2020年の劇場版公開見送りによって制作期間が空き、2022年にある意味でリスタートした名探偵コナンの3作目という点だ。

コロナ後に作られた2022年の「ハロウィンの花嫁」を、私は「ついに到来したブレイクスルー」、23年の「黒鉄の魚影」を、初期7作品以来の黄金時代の幕開けと評価した。詳細はそれぞれの記事をご覧いただきたい。

conan-mania.com

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新世代のコナンがハロウィンの花嫁から始まったことは一定のコンセンサスが得られているものと思うが、今作の「100万ドルの五稜星」は、3作目の魅力と難しさや、長く続く作品を評価する際には避けられない論点の多さ、複雑さを感じた作品だった。

前提として、本作はすごく良い作品だと考えている。本当に偉そうではあるのだが、永岡智佳監督のアニメ映画監督としての力量アップが伝わってくるからだ。

永岡監督が初めて劇場版を監督した「紺青の拳」。事件は申し訳程度にあるのだが、正直申し上げて脚本、演出を投げているとしか思えなかった。一言でいうのであれば、コナンと瓜二つの人間を蘭が別人と認識するような話を真剣に見ろというほうが無理があると思う。

脚本を担当した大倉さんについては、ハロウィンの花嫁で脚本の質を大きく上げていたが、永岡監督については次作「緋色の弾丸」も評価できなかった。「いまなに待ち?」というよな、登場人物が何をどうするためにどういう行動をしているのかという基本が非常に分かりにくく、そうこうしているうちに映画のストーリー上必然性のない、沖矢とメアリーや世良によるアクションで尺が取られてしまっていたというのが私の印象だった。

このような背景があったので、今回も不安はあったが、今作ではこれまでの作品でできていなかったことが丁寧に処理されていた。真面目にコツコツ映画らしい描写を積み重ねていることが伝わってきて、非常に嬉しくなった。

(本当に何様なのかという偉そうな感想であり、あらかじめお詫び申し上げたい)

本作を評価する際には、コナン劇場版の大ヒットが当然のように期待されていたり、1年という時間的、人的制約の中で制作されたことに触れる必要がある。ここを意識しながら、まずは(1)原作と劇場版の関係(2)制作期間が1年に戻った反動、そしてとても個人的になるが(3)青山先生が考えるコナン作品像ーーの3つの視点で考えていきたい。

その後、本作の映画作品としてのクオリティについて、ストーリー全体やディティールの感想を述べる。

原作のメンツをたてる

正直、「100万ドルの五稜星」、評価するのがすごく難しい。この記事を書くのにもとても苦労している。数年後、この作品はどんな位置付けになっているのかも想像がつかない。

ただ、今後は劇場版を映画の質だけで評価するのはますます難しくなると感じた。どんな真実が明かされたか。登場人物にどんな進展があったかで評価が分かれるし、その時の観客が何を求めているかでも変わるだろう。

繰り返し指摘してきたが、コナン映画に求めるものや、どのくらいの理解度で劇場版を見に来るかが人によって異なる

そういう意味では、ハロ嫁と黒鉄が例外中の例外で、今作は技術的なアップデートを前提に、原作に関わる展開を作品の重要なテーマにしたため、全体のテイストとしては緋色の弾丸以前に戻っている感じがする。

原作ができていなかったことをやったのを黒鉄だと位置づければ、今回はさらに作り手が賢くなって、原作の伏線回収や新要素の追加によって原作のメンツをたてながら、一定水準のエンタメ作品を、できるだけ負担を抑えて制作することに徹するという、今後のコナン劇場版の基本的な構造を示した、と整理したい。

脱・二元論

さて、原作と劇場版はリンクしているか、それともそれぞれが独立している「パラレル」の世界観かという議論は、昨年の「黒鉄」で完全に終止符が打たれた。黒鉄は、さまざまな事情で原作ではできていないことを、いわば劇場版に外注した作品ともいえる。

ただし、そうした本質的な評価の一方、外形的には、原作と劇場版は常にリンクするようになったというのが実態だ。さらに、例えば異次元の狙撃手や緋色の弾丸が、原作で張られた伏線の回収や仮説の答え合わせを主軸としていたのに対して、今作では原作で進行中の話とは関係のない新事実を明らかにするパターンを始めた。

やや乱暴に表現するなら、「読者は新一と怪盗キッドの顔が似ている件は気にしてなかったのに、突然作り手側が持ち出してきた」という印象がある。

原作と劇場版は、それぞれが同じ世界の話なのかどうかという二元論から、ある場面ではリンクし、別の場面ではリンクしない。同じ作品でも、このキャラについてはリンクする、といったような、要素ごとにリンクの有無が共存するようになった。これが、今回言及した「原作のメンツをたてる」の意味である。

距離のとり方は今後も、作品ごと、描写ごとに細分化され、複雑化するだろう。

恣意的なのは当然だけど

アニメ映画はどこまでいってもご都合主義だ。実際の俳優で制作する実写映画と違って、演者の制約や物理的な限界がないアニメ映画で破綻した描写は存在するはずがない、とも言える。

だから、原作と劇場版のリンクの複雑化は、都合のいいときには「ここは原作とつながっています!」と主張し、あまり深く考えてほしくない描写はあっさり済ますという、作り手にとって非常に都合のよい状況だ。

今作では、原作リンクがふんだんに盛り込まれている。もやはだれも気にしないが、平次がキッドが化けた和葉にキスしてしまいそうになったことを逆恨みするという原作描写は、コナンの正体が高校生探偵工藤新一であることと、ほとんど変わらない当然の設定として扱われている。

逆に、「なぜいまさら新一とキッドの顔の話??」という問題。アバンタイトルの切り合いで、キッドをみて服部が「その顔…」っていうけど、観に来ている人のほぼ全員が既知の事実であり、新情報のように提示されても困惑する。

原作で正面から扱ったことはないものの、劇場版では少なくとも銀翼、天空、向日葵の3作で触れられたことのある話だ。

いやいや、劇場版は依然として独立した存在と考えるべきとの意見もあるかもしれないが、それを言えば、今回使われた和葉の耳の感覚が鋭敏だという話は、から紅の恋歌で追加された要素だ。

結局、こうした指摘は水掛け論にしかならない。どの劇場版を同じ世界感のできごととして扱い、逆にどれがパラレルなのかは作り手のさじ加減次第。恣意的な原作リンクの選定になるのは避けられないのである。劇場版と原作の境目が、都合のいいときには出現し、あるときにはスッと消える。これは受け入れるしかない。

原作リンクが増えるのは必然

原作リンクが増える、あるいはリンクの有無の変化が激しくなるのはやむを得ないことではないかと考えている。毎年毎年、100億円を超える興行収入を叩き出す映画を作る負担は尋常ではない。

これだけ人気があるので金銭的な負担はないだろうが、制作する人的、時間的負担を少しでも抑えるには、原作と独立した存在として一からキャラクターを造形したりストーリーを練ったりするより、登場する新キャラを減らし、劇場版のために一から起こすメインストーリーの比重を減らして、原作から登場させるキャラを増やし、原作で語っている話を映画に持ち込んだほうがよい。

宣伝でも、今回「怪盗キッドの真実」と宣伝して人を集めているので、多くの観客からするとそこが一番知りたいこと。映画のメインストーリーに求めるクオリティが相対的に下がるのは事実だ。

「1年延期」の効果切れ

もう一つの論点が、コロナ禍を経て平時のコナン劇場版の制作に戻り、時間により追われるようになっているのではないかという懸念の的中だ。1年の公開見送りで生じた時間的貯金は、ハロ嫁と黒鉄で使い切ったのではないだろうか。

今作、特に人物のサイズ調整や背景の書き込みが、時間に追われていて不足していたと感じる。どのシーンかあいまいなのだが、コナンと平次2人のカットで顔が崩れており、かつ頭と体のバランスがよくない箇所があった。

さらに背景についても、全般的に細かい書き込みを断念していたような箇所が見られた。アクションシーンや終盤の五稜郭の場面はある程度書き込まれていたものの、中盤の函館市内のシーンでは山と市街地の書き方がアニオリみたいで少し残念。

脚本の細かいブラッシュアップについても不足している箇所があり、これは後述したい。

感じていたズレ

最近薄々感じてはいたんだけど、最近の青山先生と判断と自分の好みに明確に違いがあって、とくに原作絡みの部分で好きになれなかった。青山先生が作りたい劇場版と自分が求める劇場版が別のものだということが、この作品であらためてわかってしまったというのは、自分にとってはきつい出来事であった。これが、本作を評価する際に示したい3つ目の視点である。

平次がしっかり告白したのを見て、泣きそうになった。それなのに失敗オチ。映画館で周りの人は笑っていたけれど、自分は「は?」という気持ちが先に来た。

すごく素敵なシチュエーションだった。「犯罪者の動機はすらすら説明できるのに、和葉の気持ちはうまく表現できない」という平次の素直な気持ちに本筋の事件のカットインも入って感動的だったのに…。

ちょっと大げさだけど、等しく尊重されるべき一人の高校生の告白がなんでこんなに擦られるのだろう。率直に言って、面白くない。

「シネマガジン」によると、青山先生は永岡監督に「和葉は平次の想いにはまったく気がついていないということでお願いします…」と指示したという。気がついていないという設定はいいのだが、であれば、これまで原作で重ねてきた描写が的外れすぎる

異性の高校生どうし、それなりの場所に何度も呼び出されているのに薄々感じてもいないという描写が通用するのは最初の1、2回までではないか。この発言で、青山先生が2人のラブコメをどのくらいのリアリティラインで書いているのかわからなくなった。

そもそも、告白をしたのに相手が聞いていないという演出は原作で一度やっている。それをまた、これ以上ない展開で告白シークエンスまで持ってきたタイミングでまたやるのって、告白失敗オチから逆算した描写だろう。その尺はもったいないから、別のことに使ってほしい。

スタングレネードで和葉の耳が一時的に聴こえづらくなったため平次の告白が聞こえなかったのはいいとしよう。平次も耳は和葉が塞いでくれたから問題なかったらしい。口の動きとか空気の振動で伝わるものはある気がするが、ここも、スタングレネードの光で目が見えづらくなっていたという処置はされている。

そうだとしても、和葉は幼馴染の男の子に、函館山に呼び出されて、素晴らしい夜景を見ながら、彼がなにかを必死に伝えているのだ。いくらなんでも、平次の気持ちにまったく気がついてないって、さすがにどうなんだ。

告白失敗オチを繰り返すなら、せめてこういうディテールに引っかからなくてもいいようにしてほしい。

そこ、真面目に考えるところだったの?

優作と黒羽盗一は双子の兄弟、つまりキッドとコナンはいとこだという「怪盗キッドの真実」についても、ファクトとしては大きいけど、いつでも追加できる後付け設定であり、どこまでいってキッドはまじっく快斗からの輸入キャラなのだから広がりようがない。

それを言ったら蘭と青子は?となるし、沖田総司も輸入じゃん、となる。沖田もじゃあ兄弟ってこと?どこまで輸入でどこまでコナン世界のキャラとして成立してるの?というメタ視点で混乱して、青山先生が今回の設定の追加をどうような位置付けにしているのか、急に分からなくなった。

これの何が悪いのか、と思うかもしれないけど、コナン世界で最近(といってももう15年くらいやっているが)、顔立ちが似ているという要素が本筋のポイントになったのがメアリーと灰原の関係、あるいは赤井家3きょうだいの関係のようなケースを考えてほしい。

彼らが血縁関係にあるというのは非常に重要なポイントだったが、今回のように登場人物同士の関係性に関する設定が今後追加されてしまえば、顔が似ていることに注意を払うべき描写が格段に増えることになる。

極論を言えば、メアリーと有希子の髪の毛は似ているし、メアリーはベルモットにも似ている。いやいや、ベルモットと有希子も似ている…となるから困るのだ。

赤井ファミリーのつながりは、それぞれ作中でキャラクターの発言として「似ている」「目がそっくり」なとど示されてきた。でも今後のコナンって、なんとなく顔立ちが似ているキャラクターが突然なにかしらの設定が追加される可能性があるってこと?小林先生と佐藤刑事が似てるのも偶然じゃないし、松田刑事と高木刑事も…。きりないよこれ。

もう一点、優作は兄が怪盗だと知っていると思うのだが、シンプルにいえば窃盗罪ないし強盗罪を多数犯した人の家族である。今回の映画を見る限り、優作は正体を知っているんだろうけど、であれば優作の警察への捜査協力が途端に空虚なものになってショックだ。犯人隠避罪、犯人蔵匿罪で刑事責任を問われるべき。犯罪者を放置している。

いやいや、そうムキにならなくても…と思うかもしれないが、これまで「新一とキッドの顔が似ているのは”そういうものだから”」という理解で処理してきた。

あるキャラの出自が判明したり、人物と人物の関係性が明らかになるのはいいが、それがどうコナンという話全体につながるのかが重要であるはずだ。キッド関してそれらが明らかになったところで、本筋に関係させようがない、

それを突如作品の中の設定として持ち出してきたのは青山先生だ。キャラクターの破綻につながりかねない。

青山先生が考えるコナン作品像と自分の好みにズレがあるのを明確に感じた。

それでもついていく

それでも、私は青山先生の作る名探偵コナンが好きだ。

今後、こうした事例が積み重なる怖さはあるけど、それでもついていくしかない。現状では、不安よりもまだまだ残る未回収の謎や組織との対決、ベルモットや灰原の将来はどうなるかなど、知りたいこと、わくわくしていることが圧倒的に多いからだ。

コナン映画の制作が、コナン本筋に取り返しのつかない影響を与えてしまわないことを願う。

前2作がコナン映画に残したノウハウ

ここからは映画本体の感想をまとめていきたい。よかった描写を列挙して思うのが、ハロ嫁以降の2作のよかった点がきちんと今回も生きているなということだ。特に演出と音楽で明確に感じる。

黒鉄に続き冒頭3分が5億点

黒鉄の冒頭のシーンは本当に素晴らしかったが、今作はそのノウハウを引き継いだ、本当に素晴らしい仕上がりであった。

冒頭、襲いに来た新政府軍をばっさばっさと斬る土方歳三のアクションがかっこいい。アニメ放送では、近年血液の色は黒になって、そもそも出血する描写も減ってしまった。映画ではある程度しっかりとした殺しのシーンを入れてくれてはいるのだが、迷宮の十字路でも、斬殺シーンは血が黄色い光として描写されていた。

それが今回はしっかり血しぶきが描かれている。特に感心したのが、屏風越しに背後から襲ってきた敵を土方が屏風ごと刺し殺したシーン。刀のパワーに圧倒されるのだが、まずはしっかり刀を刺し、さらにグッと刺すと、いよいよ大量吐血し、息絶える刺客。そして刀で貫かれた屏風の穴にズームアップしながら場面が転換し、屏風を観察するコナンの様子が映される。素晴らしい描写で感激した。

菅野さんが成し遂げた革新

メインテーマとクレジットの出し方、よくあそこまで工夫するなと本当に思う。オープニングタイトルの入りはオーソドックスだが、メインテーマが圧倒的に洗練されており、わくわく、どきどきという感情とともに「美しい…」とつぶやきたくなった。とくに中盤のいわゆるCメロ的な部分は、アニメ映画ではなく実写映画のテーマ音楽のような音作りだ。

私は音楽素人で、メインテーマは天カウバージョンがいちばん好きだが、いまの時代に頭から単にティンパニや太鼓をガンガン鳴らすような伝統的なメインテーマは受け入れられにくいだろう。イントロの音数が減って中盤での個性が出やすくなってるのも作品を重ねる中での工夫なのではないか。菅野さんが発明した新たなメインテーマ像である。

主要キャラ紹介の方法について、今回はいつもの映像をステンドグラスにうつしたり、日本の屋敷建築に投影したりといった工夫が凝らされていた。クレジットも縦書き明朝の白文字でシンプル紹介。気持ち悪い文字で装飾していた数年前が遠い昔のようだ。

ちょっとマニアックだが、オープニング中盤、赤い空間に日本刀がズラって並んでるシーンがあったけど、素晴らしすぎて「007スカイフォールのオープニングタイトルみたいだ…」と見入ってしまった。

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気の利いた描写の積み重ね

和葉は耳がよいという設定は、前述したようにから紅の恋歌からの要素輸入。福城聖の鞘の音の違いの気がつくという展開は、この設定が自然に生きていたと思う。「ええ音させてた」と和葉が作中で言っているので、その後の演舞で和葉が感じた違和感は音に関係するというのは分かりやすい示唆。

その後の、キッドと面野郎の斬り合い対決、対決自体もスピード感があり、見てて手に力が入るが、函館運輸所(車両基地)という場所の設定がよい。車両と車両の間という、そう広くはない空間で戦いを見せることで、空間に奥行きが生まれている。

さらに敵を追い払ったあと、キッドが今回の事件に関わる経緯を説明するが、まず、国鉄時代の塗装されているいわゆる旧型客車みたいな車両の内部で説明するのが粋だ。こういうところが、ハロ嫁以降のコナンは垢抜けているのだよなあ。

以前だったらただ3人が突っ立ちながら、全部言葉で説明していたと思う。どうしても言葉による説明が多くなるので、話している内容に関係してキッドがちょこちょこミニマジックを挟むのも、とても配慮が効いていてかわいい。

福城邸で遠慮なくまんじゅうをバクバク食べる沖田(キッド)の描写と、特にお気に入りなのが、服部がコナンに「よお飛ばされる日やのお!」というと、コナンは「よくキャッチされる日の間違いだろ」と反応するシーン。

これらのシーンで、沖田がただ動かずじっと話を聞いているだけならどうだろう。あるいか、服部とコナンのやり取りがなかったら。

こういう描写は劇中の展開にメリハリを付けたり、見やすくする効果を感じるのだが、同時に見終わったあとの感覚の良さに影響する気がするのだ。

登場人物の出入りに見た工夫と限界

紅葉と伊織コンビが終始コメディリリーフだったのは好感触。物語にメリハリをつける要素になっていたと思うし、二人の印象が悪くならない、ちょうどいい塩梅だった。

ただ、紅葉が俳句に造詣が深いっていうような雰囲気の設定だったけど、紅葉って百人一首の名人であり、俳句ではなくて短歌だ。なんなら平安時代の文学に関する知識があるという話であり、新選組というか土方歳三はもはや近代史では?というツッコミはあるのだが(笑)。

序盤、弁護士殺害事件現場にきた川添刑事に「ドジだけど遅刻なんかする奴じゃないんだけどなあ」って西村警部がつぶやいた時点で、こいつは何か絡みそうだなとは思っていたが、予想通り。

繰り返すが、緋色の弾丸以前はこういう普通の伏線描写すらできていなかった。映画ってこういうコツコツした手間の積み重ねだから。

ただ、その後、川添の描写は記号的な怪しいキャラになってしまったのは残念。事件の背景について小五郎に捜査状況を説明するときに、PCの上に紙コップを置いたために別の写真を映してしまう展開には頭抱えてしまった。怪しさをにじみ出しすぎているせいで、「いや、いまの写真は誰ですか?」って小五郎が尋ねないのが不自然だ。

その後の展開で、タイミングよく蘭と和葉を拾うのもわざとらしすぎるし、北海道東照宮からのカーチェイスが終わったあと、コナンと平次に東照宮の巫女の対応を任せるのも突っ込みたくなった。とはいえここまでくると、観客に気づかせるための確信犯的な描写。ほとんどの人がこ時点で川添がただの刑事ではないことには気がついただろう。

(さらに、この巫女もはほぼモブキャラ化しており、名前の付け方も適当すぎるというご愛嬌つき)。

コナンの謎解きで明らかになる前に、小五郎の高所恐怖症描写も絡めて五稜郭を上空からながめておくというプチ伏線を絡めておくのはよかった。どっちにしろお話の都合で小五郎は退場させる必要があるので、こういう絡ませ方を残しておくのは非常に丁寧な処理。

一方、中森警部が撃たれる必然性はどうだろう。カドクラにとって斧江拓三の口封じはマストだったのか。ここは、中森警部を終盤に物語から退場させることと、娘の青子を登場させ、かつキッドが事件に関与し続ける理由を作るという2つの目的から逆算したシーンだという苦労が見える。中森警部はコナンとカドクラのカーチェイスの過程で流れ弾をくらって退場するくらいでよかったのではないか。

地方舞台の映画では、事件を動かす地元の刑事が必要なので西村警部がいるのはいいが、キッド映画のため中森警部も登場。役割の重複は仕方がないのだが、西村も中森もしばしばニートしていたと思う。

探偵団の登場タイミングについて、中森警部が撃たれたあと、全体のトーンがリシアスに晴れた後、雰囲気をがらっと変えるための処置でGoodではあった。ただ、最終的に探偵団は謎解きのデモンストレーション要員としての役割しかなかったのは悔やまれる。それにしか登場させないのであれば、デモンストレーションは自動でやったことにして処理して探偵団は今回は出さなくてもよかったのでは。

あと、さすがにダジャレクイズの考える時間が短すぎた(苦笑)。体感1分くらい。

及ばなかった脚本の精査

制作期間が1年に戻ったことが、脚本のブラッシュアップ不足に影響しているのではないかと前述したが、やや細かい点について少しだけ指摘しておきたい。

まず、福城良衛が久垣弁護士を殺害した理由。チンピラ弁護士とはいえ、さすがに息子を警察にかくまってもらうために人を殺すのはなあ。ここは久垣が刀を横取りして儲けようとしたのでカッとなって、とか、自身の関与をバラされそうになったというような、もっともらしい理由付けがほしかった。

足が不自由な斧江が各地を旅行していたことから、相棒の福城良衛は車の免許を持っていると分かったというコナンの推理も、ちょっと雑すぎないか。タクシーで移動していたとは考えないのか。運転手くらいは別に雇っていたとは考えないのか。矛盾はしていないけどちょっと無理がある謎解き。

斧江が残した兵器は暗号解読機だったわけだが、これ自体はいわゆる核兵器生物兵器を連想しがちなところ、さすがにそれをコナン映画で扱う難しさと、単なる暴力装置ではなかったという意外性を突いた設定だった。

ただ、これだけで戦況を一変というのにはさすがに無理がある。戦中、各国が暗号解読に血道を上げていたのは事実だが、ミッドウェー海戦以降、日本は劣勢となり戦果をあげていない。日本が米国の暗号を解読できたとして、それが戦況を劇的に好転させるとは考えにくい。

そもそも、80年近く前の暗号解読機は、キッドが劇中でスマホを示して解説してくれているように、とうの昔に陳腐化してしまい、今は役立たない技術だ。暗号解読器ではなく別の兵器だったとしても、物理的な劣化などで使い物にならなかった可能性はある。

兵器を手に入れようとしたカドクラも、破壊しようとした福城良衛も、そうした時間経過のリスクにまったく思い至らぬままこんな大騒動を起こしたというのは、やはりすんなりとは飲み込めないのではないか。

細かい点でいえば、本作の作中、かっちりとした西暦が一つも出ないから、戦中の描写について年代の基準が曖昧すぎる気がする。先の大戦といっても、非常に長い期間行われた。対米開戦した太平洋戦争を指すとしても1941年から45年、その前の日中戦争などを含めると37年からである。

謎解きについて、刀の謎が解けて、コナンや平次が北海道東照宮に向かうが、北海道東照宮までの各陣営の距離が感覚的に分からないため、誰が一番最初に到着するのかよくわからない。直後のシーンで小五郎が出てきてらすぐには本人かキッドの変装か分からず混乱した。

コナンと平次が真相に気が付くシーン、探偵団が持っている駅スタンプが「道しるべ」になる意味がその場で理解できた人っているのだろうか。なんなら、私はいまだにピンと来ない…。

置いていかれる観客

メインの事件についても整理する。おおまかな事件の経過は以下の通り。

出来事
戦前 斧江圭三郎、北海道で金鉱脈を掘り当てて財閥を築く。死後、財産の一部が消えており、金塊としてどこかに隠したか、「戦況を一変させるほどの強力な兵器」に変えたとする説も
  東窪栄達が6本の刀を作製
戦後

斧江忠之と福城良衛が知り合う

 

福城聖の母(医師)、戦場で死去

1年前 斧江忠之死去
1年前 斧江拓三、事業がうまくいかず、資金繰りのため所蔵品を鈴木財閥に売却

 

時系列 出来事
0日目 久垣澄人、ドバイから日本へ。その後、福城良衛に殺害される
  キッドが斧江家に盗みに入る
1日目

剣道大会。殺害事件発覚。キッドと面野郎(福城良衛)対決

2日目 昼間、謎解き。北海道東照宮から箱のみ見つかる。市内でカーチェイス。斧江拓三逮捕、中森警部狙撃
3日目 探偵団が函館にやってくる。中森警部の意識が戻る
謎解き。函館山でクライマックス
刀について

2本 ドバイで久垣が発見、カドクラの手に渡る 目釘穴なし

2本 斧江家の収蔵庫で保管、キッドが盗む 右半円と左半円

2本 福城曽祖父が斧江圭三郎から贈られる 星型と正円

あらためて整理してみると、これだけの情報量を処理するには尺が足りなかったし、説明もだいぶ苦しかったなと思う。逆に言えば、これだけの情報量をよく詰め込んだなともいえる。

福城聖をめぐる刀の鞘のすり替えや母親が戦地で命を落としたことを悔いて爆弾で函館山を破壊しようとするくだりは全面的になくしてしまえば、簡素化できたのではないか。あってもなくてもいい。

北海道東照宮に保管されている刀を探しに行くというくだりはいらなかったのではないか。そもそも暗号も、北海道東照宮の刀を見つけるために逆算して設定された要素。大胆に捨象することもできたのではないか。

映画の満足度≠映画の質

一定水準をクリアした映画用のオリジナルストーリーに、原作の新事実や伏線回収を混ぜるというコナン映画の方向性は、今後ニューノーマルになると思う。青山先生の作りたい名探偵コナンの将来像が濃く反映され、満足度は映画技術やストーリーの面白さとは必ずしも一致しなくなるだろう。

ここまで目を通している人はほとんどいないだろうが、私が今後の劇場版に求めることは下の2点だ。

①劇場版を利用した本筋の展開の引き伸ばしや新要素の追加で、本筋の魅力が損なわれないようにしてほしい

②劇場版の演出、脚本、音楽、作画については現在のクオリティを維持し、①で行う新要素追加でそうしたクオリティが落ちないようにしてほしい

この2点を考慮に入れていただいて、来年以降の劇場版を制作してもらえることを願う。